このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。
では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。